美女と野球の一部を見て(低次元での主観的要素)

以下抜粋。


以前、「一億総白痴化」といわれた時代があったけど、今はこうなんじゃないかと思う。
「一億二千万総鶴太郎化」
あえて、鶴ちゃんと呼ばせてもらうが、僕は鶴ちゃんをテレビで観る度に恐ろしくなってくる。
人間はここまで自己批評が欠落してしまうのかということに自らを省みて、自分が不安になってしまう。
四回戦ボクサーの分際で世界戦のセコンドで首からタオルを掛け、三十年ボクシングを見つめたような顔をする鶴ちゃん。
大皿料理の店長が書くような書と絵をやり始めたと思ったら、オリンピックにまでしゃしゃり出て、「魚ってのはねぇ。見ているだけで美しくて描かずにはいられなくなるんですねぇ」と大芸術家みたいに眉間にシワを刻み、「汝は王者」とか例の困った書をやりだしてしまう。
別に鶴ちゃんの絵がどうだとか、書がどうなんて話はどうでもいいのだが、そんな態度が何故できるのかと疑問に思うのである。
これは自己批評がないからなのだ。もし彼に一グラムでもそれがあったらアレはできない。できるはずがない。
〝俺がこんなことしていたらチャンピオンが安っぽく映るんじゃないだろうか?〟とか〝こんな駆け出しの身で、大芸術家ぶっていいのか俺は?ああ、家に帰ったらまた自己嫌悪に陥りそうだ〟
たぶんこんなことは鶴ちゃんの思考回路には登場しないのである。


だいぶ前に思っていたコトだがインターネットとマンガ、雑誌の弊害でイマ正に「超しったか」がメッチャ多いコト、だからオレは「にわか」も気に喰わん、進もうという意志も見えんから。
結局、理解度だと思うが性能はヒトそれぞれなんで。
ついでに「AじゃなかったらB」みたいなのはアホ発言でしかねえ
実はネタとして作ってたのが「ガンダム好きに悪いヒトはいないってコトはガンダムが好きじゃないヤツは悪いヤツだな。」ってのをね
使いにくくなったわ。
後やっても無いコトを見たような振りをして「才能」が無いとダメとか
なんでお前が言えるんだよ、と
「それ」はやってきた人間が頂上に登った時に感じ言えるコトであって
最初からダメというモノの見方ならほとんどの人間は生まれた時から可能性はゼロだ。
「情報」というモノは有益であるハズが蔓延して自分は冷静に「情報」の「状況」を確認していると思ってしまっているから「正しい」と思う「間違い」を生み出してしまっている。
記事をまとめると
もう大分考えようや(低次元での主観的要素が強過ぎる。)。